神は死んでいない

「神は死んだ」(Gott ist tot, God is dead)と語ったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェが亡くなったのは西暦1900年、奇しくも19世紀最後の年だ。

このころはまだ、大衆レベルでは人類は神の存在を信じていた。欧米に限らず、日本のような仏教や八百万の神々が宗教的なものを形づくっていた国でも、庶民レベルでは「なむあみだぶつ」といった言葉を普通に唱えるものだった。

しかし、20世紀の科学の発展の過程で、大衆レベルで人類は神の存在を信じなくなった。

21世紀にもなった今、神の存在を信じるなんて、よっぽど科学に疎い人間か、変な宗教でも信じている人間かととらえられてしまうところがある。

しかし、そのような20世紀的な俗的な考え方こそ間違っている。神は死んでなどいない。

これは迷妄でもなんでもなくて、普通に西洋哲学史を勉強してみればわかることだ。

科学が導いた錯覚

ライト兄弟が初めて飛行機を飛ばしたのが1903年、20世紀が始まって間もない頃だ。

第一次世界大戦(1914-1919)では既に戦闘機の活躍を見ている。

飛行機を発明すれば雲の上へと突き抜けていくことができる。雲の上には天国はなかった。

ユーリイ・ガガーリンが宇宙へ飛び立ったのが1961年、ニール・アームストロング船長らアポロ11号が月に降り立ったのが1969年。

しかし、月まで行っても天国はなかった。

今では宇宙物理学者が宇宙の果ての構造まで解き明かしているとされている。

宇宙物理学を信奉している人の誰も、この宇宙のどこかに天国があるなんて信じていない。未知の部分はまだまだあるが、所詮は計算式と有能な望遠鏡で解明できる世界だと信じ切っている。

物理学を専門にしていない世の中の平均的な人間からしてみたら、「あの頭の良い人たちが難しい計算式と最新の観測機器でそうだと言っているのだから、真実なのだろう」と考えざるを得ない、といったところではないか。

しかし、これこそ完全な錯覚だ。

相対性理論

アルベルト・アインシュタインが特殊相対性理論を発表したのが1905年。これも所詮20世紀になってからの話だ。

たしかに、移動すれば時間の流れが変わるなんて、21世紀に生きる現代人にとっても未だに実感できない話だ。しかし、そちらの方が真実であって、この宇宙を支配する物理法則はアインシュタインの相対性理論に上に成り立っているという。

ここでは量子力学の話は措いておくが、アインシュタインの方程式を、検討できる人は検討してみてほしい。

変数は x, y, z, t のたった4つだけだ。

つまり、時間を別にして、x, y, z の3次元空間内で考えている話に過ぎない。

当たり前と言えば当たり前の話で、アインシュタインが特殊相対性理論を導いたのは、マイケルソン・モーリーの実験やマクスウェル方程式といった古典物理学の学問的成果を前提に、新たな理論を構築しただけだからだ。

最新鋭の天体望遠鏡で観測すれば宇宙の果てもわかるのかもしれない。そこに天国は存在しない。しかし、それは、x, y, z の3次元座標空間で定義される、3次元空間内の話だ。

3次元の世界には天国は存在しなかった。現代の宇宙物理学が主張できるのは、それだけだ。

近代の枠組み

ミシェル・フーコーを持ち出すまでもなく、わずか数百年前の社会の感覚を私たち現代人が理解するのは困難だ。人々がものごとを把握する際の観念的な枠組みが異なっているためだ。

中世という時代は、ヨーロッパでも日本でも、神あるいは神仏の存在感は大きかったし、たいていの人は神や神仏が実在すると信じていた。信じていたというより、実在するという実感があった。

その感覚は、地上の権力という視点では、ローマ・カトリック教会の方が各国の世俗の王権よりも上位に位置することにつながった。日本でも、織田信長が比叡山を焼き討ちする以前の、世俗権力は宗教界に介入できないという実態があった。

中世から近代(あるいは近世)への転換を画する要素の一つは、宗教権力と世俗の王権との権威の逆転だ。